このたび縁あって私の拙い文をコラムに掲載していただく運びになりました。
とはいえ根っからの筆不精の私は、何について書こうか、どのように書こうか、と逡巡するだけで全く筆が進みません。
いろいろ迷った末、月並みですが、私がどのようにして星空に惹かれていったのか、またどのようにして星景写真に惹かれ撮影するようになったか、についてお話ししたいと思います。
【星との出逢い】
私が生まれたのは長野県の南端にある山の中のごくごく小さな町。町とは名ばかりで、東西南北どの方向に行くにも峠を越さなければならないような、本来は「山村」と呼ぶべき所です。
そんなわけで、見上げれば、現代の日本で多かれ少なかれ問題となっている光害など全くない漆黒の星空がそこにあるのでした。
あれは確か小学生の低学年の頃、担任の先生が言った言葉でした。ー「こんやはげっしょくがあるんだ。お月さまがちきゅうのかげに入ってくらくなるんだよ。見てごらん。」ー
その晩私はこの言葉に誘われ、たまたま家にあった2.5Xのオペラグラスを持ってその時を待つのでした。
すると、あんなに明るかった満月の片隅が突然薄暗くなり、その薄暗い部分がどんどん増えていきました。薄暗い部分も真っ黒ではなく暗い赤色をしていました。やがて薄暗い部分が月を覆い尽くすようになると、今まで見えなかった星々が月の周りに見えるようになりました。………
この一連の現象を目(ま)の当たりにした私はひどく感激するのでした。特に皆既中にオペラグラスで見た月は(私には)球体に見えたのでした。
この素敵な天文ショーを体験した私はその翌年、親にせがんで天体望遠鏡を入手しました。と言っても口径40 mm焦点距離800 mm F20と言う非常に暗い対物レンズを塩ビのチューブにはめただけのごく簡単な望遠鏡。それでもオペラグラスをはるかにしのぐ迫力に感動して、月の表面、木星、土星、金星、すばるなどを観望したものです。また近所のお兄さんからハーフサイズカメラを借りて人生初の月の写真にトライしたのもこの頃です。
小学生時代はずっとその望遠鏡で観望していましたが、より性能の高いものを求めるのが人の常。ということで中学生になった私はまた親に懇願。ところがあえなく玉砕。しかし転んでもただでは起きたくない私(?)は、ある有益な情報を得て学校の理科の先生に相談しましたー「先生、理科の実験室にある望遠鏡ですが、ほとんど使われていないようですね。口径も大きいし赤道儀がついたとても良い望遠鏡なんだから使わないともったいないですよ。今度望遠鏡で星を見ませんか?」ー、
ー「赤道儀の使い方知ってるのか?」ー、
ー「(本当は知らないけれど)はい、なんとか!」ー
ということで、以後、(教師の監督下と言う制約はあるものの)その高性能な望遠鏡を半ば自由に使うことができました。
その頃の将来の夢はズバリ天文学者になることでした。が、その夢は高校生になって脆くも崩れ去ってしまいました。というのも、理工系の大学の進学に必要な科目である物理や化学の点数が壊滅的に低かったからです。
以後、私の天文ライフは15年の長きに渡る氷河期に入るのでした。
15年が経ち、家族ができ子供が生まれるころになるとある程度心に余裕ができ天体観望を再開しました。ある日、ふと自前の望遠鏡が欲しい、と思うようになり、フローライト+赤道儀という豪華な組み合わせの望遠鏡を買いました。この望遠鏡の見え味は抜群でした。以後、星の写真を撮り始めるまでの長きに渡ってこの望遠鏡を使っていました。
【星景写真との出逢い】
それはある年の夏のこと。子供達を連れて田舎の実家に帰省し、盆踊りをさせた後、満天の星空を見ながら家に帰る途中のことでした。子供達が「わぁ、プラネタリウムみたいに星がいっぱいある!」(それでは本末転倒だが)などと話していた直後、家族全員が大きな流れ星を目撃したのです。薄青色の火球で西天から北天にかけてゆっくり流れ、最後にはオレンジ色の光を放ちながら二つに分裂しました。これは子供達にとっても非常に印象深く、二十余年を経た今でも、あの流星はすごかったね、と話しています。私は私で、こういう光景を写真に収めることができたらどんなにいいんだろう、と思いました。ですが自他とも認める筋金入りの写真下手の私が星空の写真を撮るにはさらに数年を要します。
数年後、夏休みの休暇で田舎に帰省する途中、深夜、休憩のため、標高約1200mの峠で車を止め外に出てみると空には満天の星が!そして南天にはとても濃い天の川が見えていました。その時「一眼レフでこの天の川を写真に収めるぞ」と一大決心しました。決心はしたものの、どんなカメラがいいのか、どんな方法で撮影するのか、などなどわからないことばかり。それもそのはず、その年まで、写真を撮ることほど嫌いなものはない、と思っていたわけですから。
ということで、地元の天体写真同好会の門をたたき撮影技術を教えていただきました。ちょうどデジタル一眼レフの黎明期だったので、デジタル一眼レフを買い、人生初の星景写真にトライ。もっともこのころはまだ星景写真と言う言葉すら知りませんでした。
このカメラでは星景写真だけでなく天体写真もたくさん撮りました。フィルムのような相反則不軌(ごく簡単に言えば、露出時間が長くなれば長くなるほどフィルムの感度が下がること)がないので、比較的短時間の露出でたくさんの星を写すことができました。その反面、初期のデジタル一眼レフは諸々のノイズ、とりわけ熱ノイズがひどく、長時間の露出には耐えられないものでした。
そんなある日、日本星景写真協会(後に私も所属するようになるのですが)の写真展で、フィルムで星景写真を撮られているプロおよびアマチュアの星景写真家の作品を直接見る機会を得ました。
会場に到着し最初の一作品を見ただけで私の心は高鳴りました。なんという色の美しさと豊さ、階調の滑らかさ、そして立体感…どう形容すればいいのでしょう、力強さと優しさの共存?
どの作品にも心を揺らす「何か」がありました。
さてデジタル一眼レフもまだ使いこなせない私でしたが、自分の非力も顧みず6X7判のカメラを入手するという暴挙(?)に打って出ました。尊敬する師匠竹下さんにカメラの使い方から始まって仕上げまでの初歩を教えてもらいました。カメラを得てからは、標高800mの実家近くだけではなく、標高1200mの高原、さらには2200m超えの山まで行くようになりました。標高1200mの高原で撮影したのが以下の作品です。
決戦日は12月初旬の下弦の頃。というのもその時期を過ぎると高原にも雪が降るようになりアクセスがかなり難しくなるからです。また、下弦の頃としたのは、適度な明るさの月光がその山の東側斜面に当たるようにしたかったからです。
当日はいい天気。心弾ませ国道をひた走ります。すると、走っている車の前方で火球が流れました。これはきっといいことがあるに違いない。私の心は更に高鳴るのでした。ところが国道に別れを告げ県道に入るころになると霧が発生し星がしだいにまばらになってゆきます。そしてついには全く見えなくなりました。かといって引き返すこともできません。一瞬にして失意のどん底に陥りながら、 撮影地へと続くトンネルを抜けると………
そこはなんと快晴でした!
慌てて三脚を立てカメラをセットしようとするのですが、興奮のあまりカメラがなかなかセットできないのです。そのうちに目的の星座か少しずつ高度を下げ、ついには山の後ろに隠れようとしています。おまけに、深夜だというのに飛行機の点滅灯があちらこちらで見られます。でももうこれ以上待つことはできません。
このようにして「見切り発車」的に撮影したのが下の作品です。
さてデジタル一眼レフの性能の向上には目覚ましいものがあり、当初、デジタル一眼レフに対し少々懐疑的であった私も新世代のカメラを手にした時にはその描写力に感銘を受けました。というのも、その頃から、短秒露出+比較明に代表されるように撮影方法も多様化してきたのですが、この新世代のカメラでは、ISO感度を高めに設定し短秒露出することにより星を点状に写し星座を目立たせることはもとより、フィルムカメラではごく当たり前だった長秒露出(1枚撮り)も可能になったからです。長秒露出による作品の一例を下に示します。撮影地は愛知県田原市。ある早春の未明、南天には、月と、夏の星座の代表格であるさそり座が君臨し木星を従えています。茜色に染まった東の水平線近くには金星と水星が見えています。
このようにしてやっと中判フィルムカメラとデジタル一眼レフの2台体制が確立しました。(もっともフィルムカメラは40年落ち、デジタル一眼レフも2020年現在7年落ちの中古ですが)
現在の私の星景写真の主なフィールドは以下の通りです。
・長野県南部および愛知県北部の低山および高原
・愛知県田原市
・名古屋市内
・自宅から半径約1 km圏内にある公園、丘、駅、建築物
・自宅ベランダ
そして、これはたまにしかないのですが、
・ベルギー、フランスなどの出張先国
以下、このような撮影地で撮った写真をいくつかご紹介して私のコラムを終わりたいと思います。
三日月と秋桜
著者:船田良邦(ふなだよしくに)
所属:日本星景写真協会準会員、中天星空クラブ会員
写真展出品:
・第三回ASPJ合同写真展「星の風景」
・第四回ASPJ巡回写真展「星の風景」(2020年現在全国巡回中)
写真集:
・宝島社「上坂徹 明日からやる気がでる! 星空名言集」にて写真一点採用
・三才ブックス「世界でいちばん素敵な月の教室」にて写真一点採用
第13回さじアストロパーク星景写真コンテスト「ニ席」
第14回さじアストロパーク星景写真コンテスト「佳作」