2024年6月号「山岳夜景を旅する」

東京の下町で生まれ育った私が星に興味を持ったのは小学生5年の時だったと思う。理科の授業で日周運動と年周運動を習い、夜、時間と日にちを変えてカシオペア座の位置を観測したのがきっかけだった。6年生の時には望遠鏡を買い、月刊誌「天文ガイド」と「天文と気象」が愛読書になった。中学生の時には毎月、区のプラネタリウムに通った。中学2年の時、コホーテク彗星(1974年1月)を撮影したくて一眼レフカメラ・ペンタックスK2を買い、独学で撮影に臨んだが前評判ほどは明るくならず、買ったばかりのカメラで露出が合わずに撃沈した。

高校時代は地学部に入り、部長になって地学班で山を歩き、天文班でペルセウス流星群や部分日食を観測したのは良き思い出だ。大学生になってからはロッククライミングや雪山など山の活動が忙しくなり、星を見る時間は激減したが、山岳フォトグラファーとして活動するようになり、やがて山岳夜景を撮るようになったのは必然だったのかも知れない。今思い出しても1996年百武彗星や1997年ヘールボップ彗星、2001年11月しし座流星群の流星雨など素晴らしい瞬間に立ち会え、人生を豊かにしてくれたような気がする。

「1996年百武彗星」

1996年百武彗星

「1997年ヘールボップ彗星」

1997年ヘールボップ彗星

「2001年しし座流星群」

2001年しし座流星群-DSC_1494

ところで今回星景写真協会のコラム用原稿を依頼されたのに申し訳ないのだが、私は夜の山岳写真を「星景写真」ではなく、「山岳夜景」と呼んでいる。まだ星景写真という名称が今ほど一般的でなかった頃から意識してこう呼ぶようにしていたのは、自分の中ではあくまでも夜の主役は月であって、月が無い時間に星が夜空に乱舞するというイメージだからだ。もちろん月齢によっては月と星がランデブーする時間もあるが、月が明るくなればもはや星の影は薄くなる。もちろん星も大好きなので、月も星と考えれば同じことなのだが・・・。

私の山岳夜景作品はメモ帳に書いた絵コンテから始まっている。難しい組み合わせを考えれば考えるほど撮影完成まで時間がかかる。チャンスはいつ来るかわからないから、頭の中にあるいくつもの引き出しにこれらをしまい、何度か撮影に通って1枚1枚を仕上げていくというやり方。中にはすぐ撮れるものもあれば、何年もかかるものもある。シャッターを押す撮影時間は知れているが、まさに絵画を描いているような撮り方かもしれない。

今までたくさんの山岳夜景作品を発表してきたが、いくつかトピックス的な作品と最新作の写真集『四季白馬』から2点を紹介したい。

1.「天空の槍ヶ岳 山頂へ続く登山者の光跡(デジタル)」

天空の槍ヶ岳 山頂へ続く光跡

富士山で有名な登山者の光跡を槍ヶ岳で撮りたいと何度か通ったが、実際にご来光を見ようと狭い山頂に立てるのは10人ほどで、ほとんどの登山者は小屋の横でご来光を迎える。この時は韓国から140人の大パーティが槍ヶ岳を訪れ、穂高まで1日で縦走するというので夜明け前から大勢が槍ヶ岳に取り付き、念願叶う1枚となった。ちなみに彼らはご来光を見るためではなく、とにかく山頂で記念写真を撮ったらすぐ降りてこないと次が登れないという状況で、この列が繋がった。絵コンテを書いた構想から7年かかって撮影が実現した作品。映画なら大勢のエキストラと莫大な経費が必要になっただろう。

2.「月光浴の白馬岳(デジタル)」

月光浴の白馬岳

アルプスの女王・白馬岳が月明りに照らされた雲海風呂に入るという設定。左奥には王様・槍ヶ岳も遠くから見守っている。白馬岳と槍ヶ岳が同時に見える場所ということで小蓮華山をセレクト。月は西へ沈みゆく月齢5の細い月なので、月の周りに星がたくさん写っている。この星があることで月を太陽と思わせないヒントとなる。低い雲海だと足浴になってしまうので、首まで浸かる雲海の高さがポイント。不思議なもので一晩の中で3回自分も雲海に飲まれ、その度にツエルトをかぶって待機した。雲海が下がりだして全く雲が無くなり、谷の中に白馬尻小屋の灯りが見えたかと思うとまたどこから雲が沸きだし、雲海になるのを繰り返した。まさに雲は生きているを実感。

これも構想から5年以上がかかった思い入れのある作品で2007年東京都写真美術館で開催された日本の新進作家展vol.5 「地球(ほし)の旅人 新たなネイチャーフォトの挑戦」のポスター、DMに採用され、山手線の車内や駅に掲示された。この写真展は動物写真家・前川貴行氏、風景写真家・林明輝氏と私の3人が1フロアーに個展形式で開催されたもので、私は「白馬」と「山岳夜景」の2部構成とし、すべて1000×1300mmの大パネルで、初めて山岳夜景をまとめて発表した。これが小学館の編集者の目に留まり、2008年に写真集『山の星月夜 眠らない日本アルプス』の上梓へと繋がった。この写真集はかなり話題を呼び、月刊誌「山と溪谷」のグラフを飾るだけでなく、朝日新聞の新書紹介に解説付きで大きく取り上げられ、週刊誌「週刊朝日」や月刊誌「サライ」にも掲載されて、有難いことに山の写真集としてはかなり珍しく重版になった。

東京都写真美術館展のポスター

山の星月夜カバーオビ

3.「月光の奥大日岳と富山夜景(フィルム)」

週刊現代グラフ

EPSON MFP image

1990年11月に北アルプス剱御前よりペンタックス6×7で撮影した「月照の奥大日岳と富山夜景」は当初、山岳写真ではないと日の目をみなかったが、12年の時を経て月刊誌「山と溪谷」2002年3月号の巻頭グラビアに採用され、上記2007年日本の新進作家展vol.5 「地球(ほし)の旅人 新たなネイチャーフォトの挑戦」に合わせて初めて週刊誌「週刊現代」のグラフ5ページの中を見開きで飾った。東京都写真美術館展での作品群の中でも最も注目を集めた1枚となった。写真評論家として高名な飯沢耕太郎氏がこの企画展にご来館され、この作品を絶賛。後日、日本を世界に紹介する雑誌「The Japan Journal」(2007年6月号)に飯沢氏がページを持つ「日本を代表する山岳写真家とその作品」として掲載いただいた。この雑誌には日本語版が無く、英語と中国語、スペイン語版がある。

ジャパンジャーナル記事_01

ジャパンジャーナル表紙_02

4.「夜明けの白馬岳と昇りゆく北斗七星(デジタル)」(写真集「四季白馬」より)

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写真集「四季白馬」のために昨年のお盆にギリギリのタイミングで撮影した。前年も同じタイミングで登ったが、条件が叶わなかった。構想から実現するまでなんと10年以上もかかってしまった。朝焼けの中、登山者の列と山小屋の灯り、薄明に消えゆく北斗七星がアクセント。北アルプス白馬三山は南北に連なっているので、白馬鑓ヶ岳から白馬岳(北)方面を狙い、結局、この前日の夕方からご来光まで、1人きりの山頂で日周運動や天の川を撮影して宿泊者が出払った天狗山荘に戻った。夜中の1時半頃に下弦をとうに過ぎた細い月が昇ってきたが、それでも雲海を照らして美しかった。(下の作品)

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5.「月明りで八方池に映る新雪の白馬三山(デジタル)」(写真集「四季白馬」より)

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八方池は白馬を代表するトレッキングポイントでリフト終点から1時間ほどの登山でたどり着ける。手軽なポイントほど手が込んだことを考える癖があるのか、かなり難しい設定だった。まずは新雪が積もることで山がくっきり池に映る。照らすのは下弦を過ぎた、かなり細い月で、この方向には街灯りが無いので星をたくさん写すことで夜を演出した。左上のアンドロメダ大星雲が良いアクセントになっている。尾根上の池は風が無い事の方が珍しく、この日もなかなか止まってくれなかったが、奇跡的にタイミングよく風がやんだ。最後の味付けは半分ほど張った薄氷。これが入ることで季節の変わり目を表現できる。八方のゴンドラ&リフトが利用できる11月初までのギリギリのタイミングで撮影に漕ぎ着けた。2021年10月30日の撮影。

今回、いくつかの作品を紹介させていただいたが、これ以外にも忘れられない作品が多くあり、まだまだ撮りたい、心に閉まった絵コンテがある。いつか皆さんに見てもらえるように1枚1枚撮影を続けて行こうと思う。

  • 菊池哲男(きくちてつお)

1961年東京生まれ。立教大学理学部物理学科卒。好きな絵画の影響で14歳から独学で写真を学び、20歳の頃から山岳写真に傾倒。山岳写真家として山岳・写真雑誌やカレンダー、ポスターなどに作品を発表し、2001年には月刊誌『山と溪谷』の表紙撮影を1年間担当する。主な写真集に『白馬 SHIROUMA』(2005年)、『白馬岳 自然の息吹き』(2011年) 、『アルプス星夜』(2016年)、『鹿島槍・五竜岳 天と地の間で』(2020年)(共に山と溪谷社)、『山の星月夜 眠らない日本アルプス』(2008年)(小学館)など。この4月に最新作『四季白馬 アルプスの楽園』を山と溪谷社から上梓した。

2007年、長野県白馬村和田野の森に作品を常設展示する菊池哲男山岳フォトアートギャラリーがオープン。東京都写真美術館にも作品が多数収蔵されている。フランスのアウトドアメーカー「ミレー」のテクニカルアドバイザー。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員、日本写真協会(PSJ)会員。 http://www.t-kikuchi.com/

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