2023年4月号「雲のある星景」

<1>雲のある星景@美瑛の丘

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
あまりにも有名な「徒然草」の一節である。
満開の桜や雲一つない月を愛でるのもいいが、それだけではないだろう、雨の日に月を想い、すだれの中で春の日が暮れていくのを逃すのもまた情緒深いものだ。吉田兼好美学の面目躍如たるものがある。晴天の日に定番の絶景を愛でるのもいいが、もっと他の面もみようよ、思いもしない美しさを見出せるものだよ、と兼好法師は力説している。

〔星景写真にほしくないもの〕
翻って、星を写真に収めようとする者はどうか。
当然のように、月と雲はない方がいいと思っている。天気予報とにらめっこして、雲のない夜の月のない時間を選んでカメラバッグを背負って夜遊びをするのが星景屋のパターンだ。雲のある夜に撮られた写真もあるが、たいてい喜んで、雲を入れ込んだ写真を撮っているわけではない。たまたま雲が月にかかったため星と同じ露出で月の模様まで写ったなどとはしゃぐことはあっても、それを狙うことはまずない。そもそも狙って狙えるものでもない。月についても同様だろう。以前はカメラの性能の制限を受けて、ある程度月がないと星に露出を合わせると地上が完全にシルエットになってしまったが、今のカメラでは月も街灯りもない真っ暗な空でも地上をあぶり出すことができる。たとえば、この一枚。福島県のとても暗いところに月のないとき撮影した。自分の手先も見えないほどの暗さだが、RAWで撮ってCameraRawで現像すると地上もきっちり出る。

<2>湿原の一本木

つまり、今や、月を撮りたいわけでもない限り、星空と地上景を描くのに月は要らないことになる。

以前仲間で全国22カ所を巡回する星景写真展「天の光・地の灯」を催行したとき、出展者9人が自信作を持ち寄り、全員で写真を念入りに選んだら、ほぼすべての写真が雲も月もないショットだったということがあった。見た目も撮影した者の満足感も雲や月がないときの方がいいということだろう。星景を撮る者なら同調できると思う。しかし、展示作品全体を見渡すと、やはり、物足りなさを感じたのは、数会場をまわって、少し客観的に自分たちの作品を見られるようになってからだ。「さあ、星空を見てくれ」と言わんばかりのよく言えば気迫、悪く言えば押し付けが感じられてきたのだ。自分は何か表現者としてもっと工夫できたのではないか、と考えさせられた。
星景写真を科学写真として、星座や天の川を見せようと思った場合、当然雲や月は邪魔ということになる。初心者はやたらと天の川を撮りたがる、見たがる。上級者になってもその感覚を引きずってきたのだろうか。あるいは天の川の写真のほうがイイネの数を稼げると思ったのだろうか、自分を表現者というのならそのあたりを考えてみたほうがいいだろうと思ったものだ。

<3>写真展で

[月や雲をどう撮る?] はたして、大きな月や雲の多い星景をいつまでも眺めていたい星景作品として仕上げられるだろうか。進んで、雲の多い空や月の大きい星空をすてきな絵にすることはできるだろうか。
さらに、月を表現したいときはどうだ。満月の月の模様、三日月のシャープな角を星や地上景と組み合わせて表現できるのか。残念だが、今のカメラのダイナミックレンジはまだまだ人間の目に及ばない。星に露出を合わせると、月は飛んでしまう。月に露出を合わせると写る星はせいぜい明るい惑星、地上は真っ暗。「三日月」でもまん丸の輝星のようになってしまう。せっかくきれいな三日月の形がなくなる。満月はなおさらだ。満月のウサギさんは見えない。

さあ、どうする?
そうだ、雲を待とう。

<4>「きんと雲と月」 月食前のパール富士


この場合、月にちょうどいい厚さの「きんと雲」がかかったため、月の模様も富士山の模様もきっちり出た。月に照らされて、雲のふちに光彩まで現れた。ナショナルジオグラフィックで取り上げられて評判になった一枚だ。この雲が富士山の上に出たため、パール富士狙いのカメラマンはみんな退散してしまった後に粘った成果だ。このあと、場所を移動して皆既月食を撮り、さらに富士山の反対側に回って、沈むパール富士を撮ったのは余談。ただし、こんなに都合よく具合のいい雲が出ることはまずない。運も大事だとことを心しよう。

<5>月齢24の月。


雲よし、富士山よし、でも、月が満月のよう。迷ったが、これはこれで良しとした。雲の散り方、地上の光害を包む雲の色、富士山、冬の星座のバランスがとてもいいと感じた。この後、雲が動いてから撮った写真もあるが、この雲のある星景の方がよかった。

[どうにもならない雲] ベタ曇ではさすがに「星」景にはならない。科学写真としては当然論外だが、芸術写真としても苦しい。そもそも星が出ていないのだから星景も何もあったものではない。こういう夜は現像に励もう。
「この向こうのオーロラ爆発」とか「オオカミの鳴く夜」などというタイトルをつけて強引に作品にするというのも、まあ、ありかもしれないが、これを出すとなると物語が必要だ。

<6>敗北のオーロラ@イエローナイフMar2016

オーロラに雲はあまり似合わないように思う。よく「日食とオーロラは晴れてなんぼ」などというが、あまりオーロラと雲をきれいに撮れた経験がない。強くないオーロラにいい形の雲の組み合わせくらいだろうか。そもそもふつうのオーロラは肉眼には雲のようにしか見えない。雲と「雲」でどう表現するか。強烈なオーロラのわきに鱗雲が流れるならわるくないかもしれない。オーロラ初心者から抜け出せたらいい雲とオーロラを作品にすることができるかな、と修行に励もう。

<7>一反木綿

比較明合成をする場合、さすがに雲はダメ。雲が美しくつながらないのだ。都会の星などどうしても比較明合成をしなければならないケースでは雲に来てほしくない。どうやっても雲が流れるようにつながらない。15分x4枚、あるいは、1時間x3枚といった比較名合成をすることもあるが、これは比較的雲もつながりやすい。一枚撮りなら多少の雲は問題ないからおもしろい。とはいえ、1時間もシャッターを開けてその間に何が起きるかわからないから、リスクは覚悟したほうがいい。2時間の一枚撮りを設定してうっかり寝てしまい、起きたら全面曇りだったこともある。多少星の軌跡は残ったが、豊かな星の色はなくなっていた。

[素敵な雲] すてきな雲が出ている場合にうまく星景作品を仕上げることができるだろうか。このとき、地上景や雲の動きがすてきだったが、さそりは雲に分断されてしまった。待っていても雲は増えるばかり。星景としてはちょっと物足りないといえなくもないが、星にこだわりすぎてかえっていい絵作りができないことがなきにしもあらず。作品作りには制限を設けない方がいい。制限を設けたところで自己満足にしかならないことを心しなければならないだろう。ここを間違えると、芸術の神様から見捨てられることは必至だ。

<8>月の出@石垣島

何はともあれ、星景写真家たる者、いったん撮影に出かけたら何が何でもボウズで帰ってこないという覚悟が必要だろう。雲が出ていれば気に入った形になるまで、あるいは、めざす星座が雲間から顔を出すまで粘り、月が出たら月の光を表現したい。月が大きいと、昼間と変わらないような絵になることがあるが、これは現像がだめだからだ。夜の幻想的な雰囲気の出ていない、昼間のようなあっけらかんとした風景の空になぜか点々と星が出ているというのはいただけない。そういう意味で、月が大きい夜は星景の表現がとても難しくなるといえる。ただ、それは難しいというだけで、できないわけではない。あれこれ考え、工夫して自分なりの満月の夜を表現したい。星が撮れない夜もあるだろうが、グルメに励むなり道の駅で特産品を買いあさるなり、必ず何かをしてから帰るようにしよう。そんな「悲しい無駄」が次の作品につながらないはずがないと信じよう。

<9>三脚の森


最後に、オーロラを追いかけてアラスカにまでやってきたのに曇られた夜。高価な三脚を並べて雲しか撮れなかった一団を撮った。アークトゥルスがかろうじて写真を救っている。車のリアウィンドーに署名して悪目立ちしている平井諭さんにコラムのバトンを渡します。噂によると、このオーロラハンティング旅行の話のようです。お楽しみに!

池田晶子@アラスカでオーロラハンティング中

著者:池田晶子(いけだ あきこ)東京都八王子市在住
日本星景写真協会準会員。
星景写真仲間を9人集めて、2015年から2017年にかけて《天の光・地の灯》星景写真展を全国22会場で巡回。星景写真も一つのテーマや思想の下に展示することのおもしろさを世に問いかけ、反響を得た。2018年には5人で巡回展を開始したが、コロナ流行のため全国巡回を阻まれる。大学では哲学、とくに、時間論を専攻し、さらに美学を学んで学芸員の資格を得た。
前回、前々回執筆したコラムと合わせてお読みいただければ幸甚です。

2021年10月号 AWE・・「星景」を考える

2017年11月号「芸術は長し、命短し」